旅先の説明板・滋賀
彦根城の堀/滋賀15
<彦根城の堀>
慶長6年(1601)
関ヶ原の合戦で落城した
佐和山城に入った井伊直政は、
荒廃していた佐和山城にかわる
新たな築城地を求めていましたが、
翌年関ヶ原でうけた
鉄砲傷がもとで死亡しました。
直政のあとを継いだ直継は、
慶長8年(1603)から
約20年の歳月を費やして、
城郭や三重の堀のほぼ全容を完成させました。
こうして巡らした三重の堀により、
天守を中心とする城郭施設を第一郭として、
内堀と中堀の間を第二郭、
中堀と外堀の間を第三郭として位置づけ、
北進してくる外敵に対して、
芹川を第一防御線とした
幾重にも渡る防御網を実現させました。
このように、
城を防御する為に造られた堀は、
明治時代以降それまでとは違った形で利用されました。
明治39年(1906)
中堀の一部が借り入れられ、
鯉の稚魚の飼育が試験的に行われました。
明治41年(1908)には、
中堀は滋賀県水産試験場の管理する
養魚場として新たに生まれ変わりました。
外堀については、
その一部が明治維新後まもない時期に
畑として埋め立てられました。
よって現在、
彦根城の外堀はほとんど姿を消しています。
築城以来約400年におよぶ歴史のもと、
彦根城の堀は、
今日では彦根城城域の一部として特別史跡に指定され、
市民をはじめ数多くの人々に親しまれています。

