日本全国名所巡りの旅


 旅先の説明板・山口

巖流ゆかりの柳/山口53



巖流ゆかりの柳


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佐々木巖流小次郎は、
宮本武蔵との勝負に敗れたが、

小次郎の「つばめ返し」の剣法は
天下無双であったということです。


燕返し.JPG



吉川英治氏は
小説「宮本武蔵」のなかで、

岩国で産まれた小次郎は、
母から家伝の
長光の刀(名物干し竿)を授かり、

この辺りの
柳とつばめを相手に独りで工夫し、
努力を重ね、遂に「つばめ返し」の
術を編み出したと記しています。


 旅先の説明板・山口

槍倒(タオ)し松/山口52



槍倒(タオ)し松


槍倒し松.JPG


この松は、
岩国武士の負けず嫌い
表徴する有名な「槍倒し松」です。


昔諸国の大名が
他藩の城下を通るときは
行列の槍を倒す
のが礼儀となっていたのですが、

大藩が小藩の城下を通るときは、
礼儀を守らず槍を立てたまま
威風堂々と通ったものです。


岩国藩が六万石の小藩であるため、
岩国の武士達はこれを見て憤慨し、

そこでかなり成長した
横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、

大藩といえども、
どうしても槍を倒さなければ
通ることが出来ないようにした
ものです。


今では昭和10年(1935)の
河川改修工事により
道路や人家が堤防の上に移りましたが

元は河辺りにあって、
ここの石段が坂道になっていましたから

大名が槍を倒して坂を登るのを見て
岩国武士達は溜飲を下げていたということです。


昭和19年(1944)頃、
この地方に発生した松喰虫によって、
この松も昭和27年(1952)8月
残念ながら枯れてしまいました。


この松は
初代の松の実から自生した直系の松を
昭和43年(1968)2月15日
3代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。


タグ:槍倒松

 旅先の説明板・山口

吉川広嘉の像/山口51



吉川広嘉の像


吉川広嘉公の像.JPG


吉川広嘉(ヒロヨシ)公は、
旧岩国藩三代目の領主で、
1621年第2代藩主
広正公の長男として生まれた。


その天性の聡明さは、
岩国城を築き岩国の町を開いた
藩祖広家
公譲りのようである。


青年時代病気療養のため、
しばしば京都に滞留したが、
そのことは人格見識を高める機縁となった。


1663年父の隠退にともない家督を継ぎ、
1679年59歳で没するまでの17年間、
内治に外交によくその手腕を振い善政をしいた。


とくに、かねてからの念願であった
流失しない橋の架設に心血を注ぎ
領内の衆知を集め、

さらに、有能な技術者を抜擢して教育するなど、
長年の苦心の結果

ついに1673年、現代工学の法にもかなう、
この優美にして堅ろうな錦帯橋の架橋に成功した。


構造の要所に、
公の発想に基づくものがあるといわれる錦帯橋は、
まさに公英知と善政を象徴するものである。
タグ:吉川広嘉