日本全国名所巡りの旅


 旅先の説明板・埼玉

川越大師・喜多院/埼玉11



川越大師・喜多院


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喜多院
徳川家と関係の深い
天台宗の寺院である。


慶長16年(1611)11月、
徳川家康が川越を訪れた時、

天海僧正の意見により、
酒井備後守忠利に工事を命じ、

無量寿寺喜多院と改める。


その後、
寛永15年(1638)1月の大火で
堂宇はことごとく焼失


それで第3代将軍家光は、
家康公の意思を継ぎ、

堀田加賀守正盛に命じて
復興にとりかかる。


その時、江戸城から
家光誕生の間」と
春日局化粧の間」を移築している。


これらの建物は共に、
国の重要文化財に指定されている。


川越喜多院五百羅漢―写真集



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将軍家政所下の古文書/埼玉10

将軍家政所下の古文書


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この古文書は、
金子頼広執権・北条時宗より
伊予国新居郷地頭職
仰せつかった公文書である。


この公文書を要約すると

「伊予国新居郷(新居浜市)地頭職
 武蔵国金子(入間市)
 阿主郡(飯能市)の
 屋敷田畑等早く領知せよ。


 亡父広綱の遺状により、
 母の尼妙覚
 弘安3年(1280)4月13日に
 金子頼広に配分したものである。


 その遺言どおり
 先例を守って領知するように 

 弘安5年(1282)7月16日 

       別当相模守北条時宗

と時宗より頼広に命じたものである。


金子氏も北条氏も
本姓は桓武平氏の出である。


平将門平清盛も同族であるが、
源平合戦の時は、
関東の平氏は、源氏に味方したのである。


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金王丸の墓/埼玉9



金王丸の墓


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源平合戦
源義経の輩下として活躍し、

武蔵・伊豆・下総・播磨・伊予の
地頭職となった金子十郎家忠の子息

金王丸の墓が、
関東の古刹「塩船観音寺」の境内にある。


家忠
西国に行く時、
この寺に仁王門寄進し戦勝祈願を祈った。


また、建治2年(1276)、
金王丸追善供養のため
二十八部衆」をこの寺に納めている。


その一つの
功徳天」の胎内銘から
金王丸は14歳で早逝。


ただ、
造像主の金子十郎家忠は、

建治2年(1276)より
60年も前に亡くなっているので
2・3代後の子孫と思われるが、

代々金子氏
この寺の大檀那であったと想像できる。


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